この記事は、いわゆる「辞めました」エントリーです。
タイトルのとおり、在籍13年を迎えた今年、とある競技の地域型レディースチームを数ヶ月前に辞めました。
学生であれ、社会人であれ、世間では「辞める」ということをマイナスに捉える風潮が根強くあります。
運動部はその傾向が特に顕著で、「部活を辞める=裏切り者」みたいな認識が根強くあります。そう思われるのを恐れて辞めたいのに辞められない、そんな人たちもたくさんいます。
しかし場合によっては辞めることによって、前よりも状態が良くなった、生活が充実したというケースも多々あります。
なぜ私が辞める決断を下したのか、それらの経緯を以下で詳しくご説明します。
学生だけではない大人にもある運動部の闇
最近やたらと部活での不祥事や学校のいじめ問題が報道で取り沙汰されています。
私も主婦を対象とした競技スポーツ団体に長年身を置いた経験があり、そのような問題はどれひとつとっても他人ごとには思えませんでした。
私がいたところは人権意識が希薄な昭和の遺物と、思考停止状態の上に従うイエスマンばかりの集団でした。
女性ばかりの競技団体だったので、報道で問題になってるような直接的な暴力こそありませんでした。
しかし言葉の暴力や人格否定、気に入らない選手をのけものにするといったパワハラ・モラハラ等は多々ありました。それによって有望な選手が数多く辞めていきました。
運動部特有の異常な年功序列の縦社会
理不尽な行為を他人に強いている張本人は、昭和時代には許されたことが令和時代では犯罪になるという意識は皆無。
先輩は後輩を奴隷化する権利があると思っているくらいですから、保身や利権のために弱いものを犠牲にするのは当然だと考えてます。
新陳代謝がない狭い世界
学生スポーツなら年数が経てば卒業・入学などで新陳代謝があります。
でも市民スポーツ系のクラブにはそれがありません。害しか与えない人ほど年齢的に競技ができなくなっているのに「威張れるから」という理由だけで居座り続けます。
どれほど「定年制があれば」と思ったかしれません。
対外的な建前がだいじ
おかしいものをおかしいと言えば周りがすぐに詭弁を使って火消しと印象美化にかかり、最後には正当化します。トラブルを握りつぶすのは「クラブの名誉を守るため」——中身はドロドロでも、建前ばかりを取り繕うことが最優先というわけです。
こんなふうに「臭いものに蓋」をしておけば表面上の平穏は保たれます。この一連の流れが「後輩にパワハラをしても正当化できた成功体験」という既成事実として刻まれ、延々と繰り返されていくのです。
ちなみに臭いものに蓋をした状態で長いこと放置し続ければどうなるでしょう?
腐敗臭がより加速するのは言わずもがな。カルト集団のような薄気味悪さが充満するだけです。
腐敗した組織は腐敗した人で構成される
よくほかの組織でもお偉いさんが失言した時にその人だけを責めますが、その組織に失言・暴力・パワハラ等を「許す環境」があるから後を絶たないわけで。
組織というのは問題を起こした人物に対し、いさめる人のあるなしだけではありません。そういう言動を「正しいことだ」と言いくるめる周りがいなければ、その発言や行為が許されることはないはずです。
なぜ許されるでしょう?
事なかれ主義だからです。
組織の正義とは波風を立てないことであり、世間的に正しい正しくないは二の次です。組織が内部告発を嫌うのは、こういった理由の積み重ねが背景に潜んでいます。
内部告発者は当然ながら吊し上げられますが、それだって「組織のための正しい行為」くらいにしか感じていません。
マインドコントロールの恐ろしさはここにあります。
火の粉がかからないよう見て見ぬふりをしてる傍観者、思考停止状態で言われたことだけを盲信するマインドコントロールされた信者、慣らされすぎて疑問さえ抱かない人、「今さら変わらない」と、諦め流されてる人も同罪です。
世代を超えて永遠に受け継がれる負のループ
問題人物を長いこと甘やかしておくとロクなことはありません。
仮にその問題人物が辞めても、ぬるま湯に浸かって安堵したい残党が似たような行為を繰り返すので、世代を超えても負の連鎖は続きます。
さんざん理不尽な行為を強いられ「あんな風になりたくない」と言ってた人が、自分に後輩ができると一転「今度は私がいじめる番!」となってしまう、実に残念な人を何人も見てきました。不毛な前例踏襲主義が横行している環境にはよくあることです。
おべっかを使って先輩に気に入られる部員は狡賢さと横柄さに磨きをかけて組織でのし上がり、後輩部員をいじめます。
この手の輩は日々以下4つの項目ばかりを考えて行動に移し、集団の中でうまく生きていく術を身につけ、閉ざされた世界の王様を目指します。
- どうしたら上に気に入られるか?
- どうしたら他人を出し抜けるか?
- どうしたら下にナメられないか?
- どうしたら常に優位なポジションに居座れるか?
それもこれも、異常ともいえる年功序列と上下関係の意識によって先輩の横暴さが許されてしまう環境と、自浄作用のない閉鎖的な空間が原因です。
一般社会との乖離がひどい「井の中の蛙」
「この人たち、怖くないのかな」と思ったのは、自身が関わるごく狭い世界だけが社会の中心になり、そこでなら通用することが広い社会での適合性を欠いていることに、本人がまったく気づいてないことです。
「 部員以外との接点が少ないために狭い世界観になってしまう。外からの新しい知識が入らない閉鎖的な環境は、人をこれほど無知で偉そうにしてしまうのか……」
私はそこにいる人たちを「外に出たら嫌われまくり、友だちなんて誰ひとりとしていない、とても寂しい人なんだろうな」と思って冷ややかな視線で眺めてました。滑稽とすら感じてました。
「一般社会なら真っ先に淘汰されるような人が、なぜここでは許されるのだろう?なんでデカい顔をしていられるのだろう?」日々そんな疑問を持ち続けました。
心は誤魔化せない
「スポーツはルールに則って行われるのに、このクラブは人としての当たり前のルールさえ守れない。」
いつからか”腐ったみかん”を連想するようになりました。
「どこのクラブにも問題はある。運動部は縦社会だから多少の理不尽はあたりまえ」と、長いこと自分を誤魔化してきましたが、コロナ禍で練習や試合がなくなってホッとしている自分に気づいたとき、「このままだと競技そのものまで嫌いになる」と思い、考えた末に退部しました。
やはり頭で誤魔化そうとしても、心を誤魔化すことはできません。
移籍にはペナルティーがあるので退部するのは勇気が入ります。
幸い私の場合は団体競技ではないので、大きな組織に属さなくても活動の場はいくらでもあります。クラブを辞めても活動場所に困らないよう、外へ外へと練習場所を数年がかりで開拓しながら辞める準備を進めました。
スポーツは楽しむことがいちばん
生涯スポーツとして楽しむための競技スタイルにシフトしてみると、今まで抱えていたストレスがウソみたいになくなり、今は心から純粋に競技そのものを楽しんでます。
この競技を始めた頃の楽しさを久々に味わってます。
スポーツというのは本来、運動や競技を通したエンジョイがベースにあって初めて良いパフォーマンスにつながるのだと実感します。
まことしやかに語り継がれた「根性があれば人生の試練を乗り越えられる」とか「我慢が美徳」なんて真っ赤な嘘。それは科学的な理論を持たない前時代の戯言です。
スポーツの語源も「楽しむ、遊ぶ、気分転換」です。それなのになぜ我慢や根性が必要なのでしょう?
まずは楽しむこと。考えてプレーすること。練習と休養のバランスをしっかり保つこと。
それをちゃんと教えてくれる指導者がいれば、最近報道されてるようなブラック部活問題は今より減っていくものと信じてます。
少なくとも令和の時代からは、無駄に権力を振り回す昭和な人の居場所がどんどんなくなる時代であってほしいと願ってやみません。