美輪明宏さんといえば、心にジンとくる名言で知られています。
その中でも特に好きな言葉は以下。
「年齢なんて、単なる数字です。それ以上でも以下でもありません。気にする必要はありません。」
しかし、現実では年齢に対する異常なこだわりを持っている人は多いです。
それを象徴するのが書店の売り場。売れ筋コーナーに「40代からの生き方」「40代からの人間関係」という類の本がズラリと並んでいます。
「ほう、これが売れてるのか」と手に取ると、かなり落胆します。ハッキリ言えば読む価値はありません。
特定の年代をターゲットにしたものほど内容はつまらない。”40代から”を、30代50代と数字だけ変えても、書かれた内容に大差はなく、中身はペラペラ。どれもこれも似たり寄ったりです。
40代だから何かが劇的に変わるわけではなく、長い人生においてほんの通過点にしか過ぎないからその手の書籍には劇的な違いがないのです。
年齢は通過点
ここでは一例として40代としてますが、これは他の年代についても言えることです。年齢は人生の中の目盛りみたいなもの。美輪さんの言葉を借りればただの数字でしかありません。数字なんて頭の片隅に置いて、自分で記憶していればいいだけのこと。
けれどその手の本が多いということは、それだけ自分の年齢にこだわる人が多くいるということです。販売戦略としてペルソナを想定するのは当然だとしても、一口に40代といっても個々に違います。年代のくくりは各自の個性や輝きを失わせ、自由を奪い去る原因です。
それにしてもなぜ、ただの目盛りや数字にこだわるのか?
生きていれば年をとるのはあたりまえ。年齢以上にこだわることは他にあるだろうと感じるので、次の項では年齢にこだわる人の心理を考えてみます。
人からどう見られているかを気にする
「もう○○才だから」、「まだ○○才だから」と、会話の中でやたら自分の年齢を口にする人っていませんか?
そういう人ほど話がつまらないと感じません?
ブログなどもそうですよね。他にネタはないのかと。「○○才だからナニ?」と聞きたくなります。
自分で勝手に作り上げたその年代のイメージ(40代はこう、50代ならこう)に固執し、「こうあるべき」と、自分をそのまま当てはめようとするから意識が年齢にばかり向かうのです。
すると次に気になるのは、他人からの視線。
「私はもう○○才だから、今からこんなことをしたらヒンシュクかしら?」
あれもダメ、これもダメ、こんなことやったらみっともないと、自らの行動をセーブするようになります。
そうやって自分の行動をセーブすると、意識は他人に向かいます。「あの人は年甲斐もなくてみっともない」と、自分がイメージした年齢別の基準に当てはめて他人をジャッジするようになっていきます。
【余談】
自分のモノサシで他人をジャッジする人ほど、異常なまでに年齢にこだわる傾向が強いです。今度、周囲をこっそり観察してみてください(笑)
保守的で頑固
人生100年時代と言われる現代において、年代の枠なんてあってないようなもの。あるとしたら女性の場合、生殖の問題や健康面くらいです。心に年齢なんて関係ありません。
でもその枠にこだわる人ほど肉体の年齢は若くても、心は老化してます。いわゆる「若き老害」で、考え方はとても保守的で頑固。周囲から浮かないことばかりに意識が向いてしまうためか心に柔軟性はなく、それでいて人格的には幼いという、とてもアンバランスな心理状態の人が多いです。
なぜそうなるのでしょう?
それは、くだらない「べき思考」に囚われているからです。変化を望むくせに、変化を恐れ、変化を阻む枠の中に自分を押し込めているからです。一見安全と思えるその枠は、場合によっては自由を奪う牢獄にもなるのです。
最後に
日本では圧倒的に年齢の枠というくくりに固執する人が多く、実にもったいないと感じたので、今回このような記事を書きました。以下にこの記事をまとめます。
年齢はただの数字
年齢は長い人生においてただの通過点
年齢のくくりは、不自由な生き方につながる
「べき思考」は心を老化させる