以下の記事は「認知的不協和」について書かれた記事です。
これを読んだとき、思わず「炎上ブロガーと同じ!」と思いました。
そこでこの記事では炎上ブロガーが被害者ぶる理由と、認知的不協和についてを書きます。
事実を捻じ曲げる信者
このくだりを読んだとき、教祖と信者の構図を連想しました。
1.人は、基本的に間違いを認めない。事実の解釈を変えるほうが得意である。
2.間違いを指摘すると「私は嫌われている」「この人は失礼だ」と解釈されてしまう可能性もある。
今回、某中年アイドルが不祥事を起こしました。やった事実だけを見れば加害者(中年アイドル)が悪いのですが、なぜか被害者に非難の矛先が向かってました。
被害者と加害者がいれば、加害者が悪いのは明白。しかし熱狂的な信者は、その部分が見えません。見ようともしません。それが怖いところです。
また、カルトの信者は、カルトの教祖が「世界が滅ぶ」との予言を外したときに、教祖を見捨てるどころか「我々が祈ったから世界は滅ばなかったのだ」と、ますます信仰を強めるそうだ。
まさにこれと同じ理屈です。
人は、自分が信じたいようにしか信じないのだと、この一連の騒動で感じました。
カリスマ主婦ブロガーが転落するまでの経緯
ネットでも同じことが言えます。
2017年秋、何から何まで包み隠さず書いちゃうプライベート切り売り系の、カリスマ主婦ブロガーMによる離婚発表記事が炎上しました。記事の内容は、自身の離婚を美談のように書いたもの。
「美談なのになぜ炎上したの?」と、ご本人も本質的なところを理解しきれないまま、「とりあえず目の前で燃え盛る炎の火消しをしなければ」ということで、少ししてから矛盾だらけの言い訳記事をアップしました。
ところが火消しに注いだのは水ではなくガソリンです。
言い訳のためなら言い訳だけを書けばいいものを、あろうことか言い訳記事の中で電撃再婚まで報告したわけだから、その燃えっぷりは最初の炎上どころではありません。各方面から矛盾点の指摘記事が次々とアップされ、燃えに燃えてあっという間に燃えカス状態。最初の炎上以上の燃えっぷりです。
Mは各方面からの指摘に答えることなく不都合な記事を次々と削除。そして2018年の初め、ドメインはそのまま、サイト名・著者名だけを変えて再出発を試みました。そこに全ての答えが見えたように感じました。
なんの説明もなく、うやむやにしたままサイトを続けることへの批判もあったし、これら一連の行為で読者からの信頼とカリスマ主婦ブロガーという地位を一気に失いました。
言い訳ブログにがっかり
彼女にしてみれば、後戻りができない選択を自らしてしまった以上、炎上しようがどうしようがブログにしがみつくしかなかったのでしょう。ほとぼりが冷めた頃、非公開の日記ブログを始め、信者に向けてメッセージを発信するようになりました。
そこに書かれていたことは、炎上に対する言い訳と恨み節です。信者たちの同情を引くためか、時には自殺をほのめかすようなことまで書かれていました。
しかしそれは、己が存続する為の計算づくの主張です。もちろん死ぬ気なんてありません。
「何を書いても叩かれる。
細かくチェックされて悪く解釈される。
まるでネットいじめだ。集団リンチだ。
私は利用された。
私は攻撃された。傷ついた心はどんなに時が経っても癒えない。」
これらの文言は、自分を弱者に見せかけるための情報操作そのもの。同情を引くには自分を被害者ポジションに置く必要があります。
信者の結束を強めるために”仮想敵”を作る。自分の正しさを証明するためには”仮想敵”を悪にしなければならない。──これはかつて世を震撼させたオウム真理教と同じ手法で、信者ビジネスのテンプレどおり。
けっきょくは炎上ブロガーだった
心底がっかりしました。批判されただけでアンチだ集団リンチだのと騒ぎ、弁解すればするほど矛盾が露呈するありさま。
それら一連の行為から継ぎ接ぎだらけの薄っぺらい本質が透けて見えました。自分の行為が元でなるべくしてなっただけなのに、自分に何か原因があったとは全く考えない。すべて人のせい。
そもそも自分で炎上するような恥さらしの記事を書かなければ、叩かれることも悪く解釈されることもなかったはず。
しかしその部分は脳内からすっぽり欠落。該当記事さえ削除したら一連の出来事もなかったことになり、いつのまにか本人の中では”矛盾を指摘した側”が悪で、炎上記事を書いた”私”が言われなき誹謗中傷をされたかわいそうな被害者になっている。
これは「事実の指摘」を「誹謗中傷」とすり替える、炎上ブロガーの常套手段です。Mに限らず、炎上する人はみな決まってこれをやります。
この手のタイプは図星をつかれると、それに答えることなくこう言います。
「批判は私への嫉妬。そのエネルギーを他のことに使えばよいのに」
そうやって批判への批判を繰り返し、巧妙に論点をすり替えます。これはお決まりのパターン。テンプレどおりです。
第三者から見れば、誰が加害者でも被害者でもありません。世に放たれたコンテンツに対する指摘です。そのコンテンツを生み出したのは誰か(事実)ってことです。
言葉は伝える側ではなく、受取る側がどう判断するか、というのが重要で、それはコンテンツを生み出す者なら誰もが知ってることです。文章力や読解力の問題ではありません。その程度のこともわからないなら、ブログなんて辞めちまえ。
認知的不協和からくる自己正当化
なぜこのような思考になるのか。私にはとても不思議でしたが、今回冒頭の記事を読んで納得しました。認知的不協和です。
複数(通常は二つ)の要素の間に不協和が存在する場合、一方の要素を変化させることによって不協和な状態を低減または除去することができる。
情報源:「認知的不協和」/ウィキペディアより引用
多くの人に好かれたい、嫌われたくないという自己の「考え」と、炎上した「事実」とのギャップ。応援されるはずという自己の「考え」と、実は嫌われている、多くの人から批判された「現実」とのギャップ。「現実の自分」と「理想の自分」とのギャップ。
それらのストレスを解消するために、「批判は嫉妬だ」と、自分に都合の良い理屈をこじつけて認知を捻じ曲げ、自己正当化に走ったのです。
認知の捻じ曲げというのは、かんたんに言えば自分を欺くこと。きっと問題になった該当記事を消したことで、すべて「なかったこと」にしたかったのだと思います。
けれど、できなかった。——だから悔し紛れに恨みつらみを書いた。
変化して前に進むのではなく、この行為は炎上前に戻ろうとしているだけ。過去の栄光にしがみついている表れで、変化とは対局に位置する行為です。終わったことを受け入れられない「認知的不協和」の表れです。
教祖を盲信する信者
教祖が教祖ならそれを真に受けて同調する信者も怖い。言葉(考え)ではなくその人の行動(事実)だけを見れば、ある程度の予測はつくはずです。
しかし熱狂的な信者にはそれがわからないようです。”盲信”とはよく言ったもの。思考停止状態に陥り本質が見えなくなり、自分の頭で考えられなくなるんですね。
教祖の言葉は、それがただの自己啓発本の受け売りであっても信者には神の声に聞こえるのでしょうか。
もっと怖いのは、自分が信者だと自覚してないところ。媚を売れば、いつか自分に見返りがくると思い込んでいるのが哀れの極みです。「信者」という文字が「儲け」になるように、「信者」の意味は「カモ」です。
チヤホヤされてかんちがいする教祖
一方教祖はどうかといえば信者にゴマすりされてチヤホヤされ続けるうちに、多くの人に支持されているとかんちがいして強気になり、少しずつ言動が過激になってます。今がそんな状態です。
「炎上してもくじけない、どん底から這い上がる私」を演じ始めたかと思えば、ときおり被害者ヅラして同情を引く言葉をはさみ、さらにブログを続ける理由として「多くの読者が私の記事を楽しみにしている」と、これまたきれいごとを並べ、「悩んでいるとき読んで心が救われた。たくさんブログがある中で、あなたのブログしか読まない」といった信者からの賞賛の声を紹介し、新たな信者獲得に向けて売り込みに必死のご様子。
時間の経過と共に無理に捻じ曲げた解釈が、いつのまにか本人の中では真実になっているのでしょうか。
その裏で、あの手この手で批判記事のもみ消しに必死のご様子。
でも全てを消し去るのは到底無理です。大手掲示板や魚拓には、この人の情報がまだまだばっちりと残っていますから。
学ばない人は同じ失敗を繰り返す
ブロクはリライトできます。しかし人生のリライトはできません。実際には過去を書き換えることなんてできないのに、強引に書き換えようとする認知の歪みは恐ろしいものだと、この手の人たちを見るといつもそう思います。
本質から目をそらして何かのせいにし、意にそぐわない意見全てを自分への攻撃と解釈し続けている限り、こういう人はいずれまた炎上するでしょう。
それが証拠に、炎上する人は懲りずに何度も繰り返しますから。
責任転嫁はいちばんラクな方法です。
でもその先に、いったい何が残るというのでしょう?
歴史に学ばないという意味で、哀れみしか感じません。せめてそういう人のカモにならないための自衛法は、踏まない、読まない、関わらない。それが得策です。