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炎上ブロガーが被害者ぶる理由

炎上ブロガーが被害者ぶる理由

この記事、読みました。「認知的不協和」について書かれた記事です。この記事では炎上ブロガーの認知的不協和について書いていきます。

事実を捻じ曲げる信者


特にこのくだりを読んだとき、教祖と信者の構図を連想しました。

1.人は、基本的に間違いを認めない。事実の解釈を変えるほうが得意である。
2.間違いを指摘すると「私は嫌われている」「この人は失礼だ」と解釈されてしまう可能性もある。

今回、某中年アイドルが不祥事を起こしました。やった事実だけを見れば加害者が悪いのですが、なぜか被害者に非難の矛先が向かってました。

被害者と加害者がいれば、加害者が悪いのは明白。それなのに熱狂的な信者には、その部分が見えません。見ようともしません。それが怖いところです。

また、カルトの信者は、カルトの教祖が「世界が滅ぶ」との予言を外したときに、教祖を見捨てるどころか「我々が祈ったから世界は滅ばなかったのだ」と、ますます信仰を強めるそうだ。

まさにこれと同じ理屈です。

人は、自分が信じたいようにしか信じないのだと、この一連の騒動で感じたことです。

炎上すると被害者ぶる

ネットでも同じことが言えます。

昨年プライベート切り売り系の、とある女性ブロガーが炎上しました。各方面から矛盾点を指摘され、ちょっとした騒動になりました。指摘自体はおかしいことをおかしいと言ってるだけで、元ネタと照らし合わせれば核心をつくものだと、少なくとも私にはそう見えました。

女性ブロガーはその指摘に答えることなく該当の記事を削除し、再出発を試みました。そこに全ての答えが見えたように感じました。

なんの説明もなくうやむやにしたままサイトを続けることへの批判は当然ありました。しかし彼女にしてみれば、もう引っ込みがつかず、ブログにしがみつくしか方法はなかったのでしょう。”過去の人”になった自覚のなさに哀れみを感じつつも、内心は「がんばれよ」と思いました。

しかしその後が悪い。

言い訳ブログにがっかり

ほとぼりが冷めたのを察知したのか、信者に向けてのメッセージらしき文言が目立つようになりました。炎上に対する言い訳と恨み節です。しかしそれは己が存続する為の主張です。

女性ブロガー
女性ブロガー
何を書いても叩かれる。
細かくチェックされて悪く解釈される。
まるでネットいじめだ。
私は利用された。
私は攻撃された。
傷ついた心は癒えない。

けっきょくは炎上ブロガーだった

正直、心底がっかりしました。自分のポジションが全くわかってない。繰り返し言うけど、世間ではすでに過去の人です。

そもそも炎上するような記事を書かなければ、叩かれることも悪く解釈されることもなかったわけです。しかしその部分は脳内からすっぽり欠落。いつのまにか”矛盾点を指摘した側”が悪で、炎上記事を書いた”私”が被害者になっている。

これは彼女に限らず、炎上ブロガーの常套手段です。

第三者から見れば、誰が加害者でも被害者でもありません。世に放たれたコンテンツに対する指摘です。そのコンテンツを生み出したのは誰か(事実)ってことです。

言葉は伝える側ではなく、受取る側がどう判断するかが重要で、それはコンテンツを生み出す者なら誰もが知ってることです。文章力や読解力の問題ではありません。

なぜこのような思考になるのか、とても不思議でした。

認知的不協和からくる自己正当化

が、冒頭の記事を読んで納得しました。認知的不協和だったのです。

複数(通常は二つ)の要素の間に不協和が存在する場合、一方の要素を変化させることによって不協和な状態を低減または除去することができる。

情報源:「認知的不協和」/ウィキペディアより引用

多くの人に好かれたい、嫌われたくないという自己の「考え」と、炎上した「事実」とのギャップ。応援されるはずという自己の「考え」と批判された「現実」とのギャップ。「現実の自分」と「理想の自分」とのギャップ。そのストレスを解消するために、「批判は嫉妬だ」と、自分に都合の良い答えを探し出して認知を捻じ曲げ、自己正当化に走ったのです。

認知の捻じ曲げというのは、かんたんに言えば自分を欺くこと。きっと問題になった該当記事を消してたことで、本人の意識はすっかり「なかったこと」になっているのです。でもそれなら恨みつらみも書くべきではないのにと、かなりドン引きしました。

実際には「あの人は今」状態になっていたとしても、せっかく心機一転、再出発をはかる決意をしたわけですからね。

変化して前に進むのではなく、炎上前に戻ろうとしているだけ。これは過去の栄光にしがみついている表れです。変化とは対局に位置する行為です。終わったことを受け入れられない「認知的不協和」の表れす。

教祖を盲信する信者

教祖が教祖ならそれを真に受けて同調する信者も怖い。

言葉(考え)ではなくその人の行動(事実)だけを見れば、ある程度の予測はつくのですが、熱狂的な信者にはそれがわからないのです。”盲信”とはよく言ったもの。本質が見えなくなり、自分の頭で考えられなくなるんですね。絵に描いたような思考停止状態です。

だから教祖の言葉は、それがただの自己啓発本の受け売りであっても信者には神の声に聞こえるのです。

もっと怖いのは、自分が信者だと自覚してないところ。媚を売れば、いつか自分に見返りがくると思い込んでいるのが哀れの極みです。「信者」という文字が「儲け」になるように、「信者」の意味は「カモ」です。

チヤホヤされてかんちがいする教祖

一方教祖はどうかといえば信者にゴマすりされてチヤホヤされ続けるうちに、多くの人に支持されているとかんちがいして強気になり、少しずつ言動が過激になります。今がそんな状態かもしれません。

「炎上してもくじけない、どん底から這い上がる私」を演じ始めたかと思えば、ときおり同情を引く言葉をはさみ、さらにブログを続ける理由として「多くの読者が私の記事を楽しみにしている」と、これまたきれいごとを並べ、「悩んでいるとき読んで心が救われた」「たくさんブログがある中であなたのブログしか読まない」といった信者からの賞賛の声を紹介し、新たな信者獲得に向けて売り込みに必死のご様子。

また「親が幸せなら子供も幸せ」などと、別人格の子供を担ぎ出し、自分の選択の正しさを証明するための言い訳を繰り返したりしています。

時間の経過と共に無理に捻じ曲げた解釈が、いつのまにか本人の中では真実になっているのです。

学ばない人は同じ失敗を繰り返す

本質から目をそらして何かのせいにし、意にそぐわない意見全てを自分への攻撃と解釈し続けている限り、こういう人はいずれまた、同じ失敗を繰り返して炎上するでしょう。

それが証拠に炎上する人は懲りずに何度も繰り返すでしょ?

その先にいったい何が残るというのでしょう?

歴史に学ばないという意味で、哀れみを感じます。

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