後を絶たない部活の不祥事。またも運動部の部活で悲しい事件が起きました。岐阜県大垣市の岐阜協立大学で、未来ある22歳の若者が命を落としました。これは単に不幸な偶然が重なった事故ではなく、人災です。
事件の経緯から読み解く問題点
いくつかの記事をチェックして感じた疑問・問題点は主に6つ。
- 道具が片付いてないことに対する罰としてのランニング
- 不十分な新型コロナへの対応
- 部員の体調管理(心のケアも含む)を第一に考えてきたのか
- 明らかに重篤な熱中症の症状があったにも関わらず、すぐに救急車を呼ばず、医療知識のない者が車で搬送
- なぜ死因を公表しないのか
- なぜ証言に食い違いがあるのか
ツッコミどころは多数ありますが、この記事では上記6項目の中から、罰としてのランニング——体罰が禁止されている昨今、指導者が意味不明の罰走を、未だあたりまえのように部員に命じたことについてを取り上げます。
体罰の規定
文科省・「学校教員法第11条」では以下の規定がなされています。
教育上必要が認められるときは懲戒を加えることはできる。ただし、体罰を加えてはならない
体罰の規定は次のとおり。
- 身体に対する侵害を内容とするもの
- 被罰者に肉体的苦痛を与えるようなもの
引用 : 学校教育法第11条に規定する児童生徒の懲戒・体罰等に関する参考事例:文部科学省
「罰走」という謎の儀式
ランニングは多くの運動部が実践している基礎的なトレーニングです。その大切なメニューを、罰のために使用するという考え方が根本的に間違ってると筆者は考えてます。
ランニングの目的
コーチや監督は日々目的に沿った練習メニューを用意して教えるのが仕事。そして指導を受ける側は、それに従い練習メニューをこなします。
しかし、ただ与えられたメニューを言われるがままにやるだけではダメで、「この練習は何を目的としたものか」「この練習をすることで得られるものは何か」をきちんと理解した上で実践しなければ、効率的なトレーニングとは言えません。
ちなみに私は別の競技をやっていますが、この考え方は全てのスポーツ競技で共通することです。
「ランラングはなんのためにやるのか」について言えば、有酸素運動を取り入れることで心肺機能が強化され、それによって「持久力アップの目的が満たされる」からそれをやるわけで、つまりランニングとは運動部にとって、必要かつ大切なフィジカルトレーニングです。
罰走はパワハラ
この野球部コーチは「道具が片付いてないことを問題視してランニングを命じた」とのことです。そのくらいなら口頭で注意すればすむことだし、100歩譲ってその問題にどうしても罰が必要だと判断したなら、問題解決に直接結びつく合理的な罰を課すのが指導者の役割です。
しかし実際に課した罰はなぜかランニング。昔は罰走が正当化されましたが、今の基準ではアウトです。
どこにランニングの必要性があるのでしょうか?
ランニングをすれば道具が片付くのでしょうか?
このように問題の解決とは全く無関係の罰を与えるという行為は、怒りに任せたパワハラであり、「スポーツ指導における暴力等に関する処分基準ガイドライン(試案)」にも「罰走はパワハラに該当する」といった旨が記載されています。
(ア)パワハラ1 同じ組織(競技団体、チーム等)で競技活動をする者に対して、職務上の地位 や人間関係などの組織内の優位性を背景に、指導の適正な範囲を超えて、精神 的若しくは身体的な苦痛を与え、又はその競技活動の環境を悪化させる行為・ 言動等をいう。
〜中略〜
違反行為には、いわゆる「しごき」や「かわいがり」、罰走など 競技力の向上とは明らかに無関係な不合理な指導が含まれる。
また市民マラソンなどで走ることを楽しんでいる人にとって、自分が楽しみにしている行為を懲罰的な意味合いで使用されるのは心外でしょう。
運動部の過剰な上下関係は害悪
中学で部活を始めた頃、遅刻すれば罰走。集中力が切れると罰走。苦しさを我慢しながらの活動。風邪で体調不良を訴えても、心配するどころか「体調管理ができてない」と説教される。なにかといえば全体責任。意味不明な慣習。同調圧力から異を唱えることも出来ず、従順に従うのみ…。そんな苦い記憶しかありません。
当時は子どもだったし、競技そのものは好きだったし、「部活はそれが当たり前」と思って黙って受け入れてきました。
しかし今から思えば理不尽かつ非合理な世界。当たり前でもなんでもない、異常な世界です。
「昭和だから仕方ない。当時はそんなものだ」思ってましたが、先日の秀岳館など、数々の部活の不祥事を知るにつけ、令和になっても何ら意識の違いがないことに、驚きを禁じ得ません。
パワハラが連鎖する理由
なぜ旧態依然とした慣習・意識が未だ変わらないのでしょう?
その答えを探るには、世代を超えて量産される「大帝国軍脳の劣化版コピー」の成り立ちに着目してみれば、かんたんにわかります。
大きな要因のひとつには、指導に当たる大人自身の一定数が、子どもの頃から長らく特定のスポーツ分野(特異な狭い世界)でしか生きてないことにあります。
競技としてのスキルは高くても、人間として、社会人としてのスキルは低いまま、世間とのズレがわからないままに成長し、いざ自分が教える立場になったときは自分が受けた指導法だけがお手本ゆえ、なんの疑いもなくそれをそのまま実践します。
ザックリ言えば「自分はこうやって育った。自分も我慢したからお前らも我慢しろ」みたい感じでしょうか。
そして指導される側もマインドコントロールにより「指導者のある程度のパワハラは仕方ない」と無意識下で思い込んでしまうから、古い指導法が成功体験として後世に受け継がれる、その流れが次の犠牲者を生む悪循環となって、暴力・パワハラが連鎖するのです。
運動部には意識改革が早急に求められる
運動部にまかり通ってた監督と選手、先輩と後輩の縦の関係…。もちろん年長者をリスペクトするという意味での上下関係はよいことですが、当然のようにある上下関係の「間違った理解と過剰な強要」は前時代の遺物で、これからの時代は排除されるべきもの。
理不尽でも上には逆らわない。挨拶は後輩から先に。能力は逆でもレギュラー入りは年上から。下には敬語使いを求め、組織や上に忠誠を誓わせる。——そういったことが「日本の社会の美徳、安定した社会の基本」のようにかつては言われたものです。
しかし広い目で見れば何の意味もなさない、世界の時流から遅れてるだけ。
やはりこれだけの犠牲者がいる以上、昔特有の風習はどこかで断ち切って変えていく必要があります。
不毛な前例踏襲主義は排除すべきもの
以前から運動部の問題は指摘されてきました。
学校や部活といった狭い世界・隠蔽されやすい世界では特に、これからは上の間違いは指摘していいし、理不尽な要求は断る。挨拶や言葉遣いは相互のもので、下に過度な縛りや敬語を強いない。体調が悪ければ回復するまでしっかり休める雰囲気を作る…。
そんなことを当たり前にしていかないと、いつまで経っても理不尽なパワハラや体罰はなくなりません。
現代社会にそぐわない非科学的な「根性論」や「スポ根」は不要です。スポーツは「健康で文化的な生活をする」という基本的人権の重要な一部をなしています。スポーツをすることはその人の権利であり、豊かな人生を送るための自己表現であり楽しみです。そこを第一に考える指導法こそが、これからの時代にはマッチしているのではないでしょうか。