「アイツ、なんだかいけすかない」
「AさんはBさんのことが嫌いらしい」
「私、どうもあの人苦手」
そんな話になると、決まって「なんで?」と聞いてくる人がいます。
その「なんで?」は、素朴なクエッションというよりはむしろ「人をむやみに嫌ってはいけないよ」という非難めいた気持ちが込められているように感じて、釈然としないモヤモヤが残ります。
人を好きなことに「なんで?」とは聞かれないのに、嫌いとなるとなぜ「なんで?」となるのでしょう?
苦手な人がいることが、そんなに悪いこと、もしくは不思議なことなのでしょうか?
人を嫌うことに否定的な偽善者
人には相性の良し悪しがあるのだから、苦手な人・敬遠したい人は一人や二人はいて当然。
人を好きになる気持ちも嫌いになる気持ちも個人の自由だと思っている私にとって、謎の正義感を振りかざしながら人の好き嫌いネタに食いついては、的外れな正論を振りかざす偽善者も苦手だなぁと、そんな風に感じるわけです。
正論でうまくいくほど世の中は単純じゃないってことを、大人ならもういい加減学べよってな話。
人の好き嫌いはあって当然
コトの起こりは仲間内の人間関係について、最近大きな変化があったこと。
私は前からその人(A子)が苦手だったので、極力緩衝し合わない距離まで離れた上でA子とは必要最低限の薄く浅い関わりに留めていたのですが、もっと近い距離にいて、濃密な付き合いをしてきた他のメンバーが、あることを境に急にA子から離れていきました。
そんな人間関係の変化を遠巻きに見ていた別のメンバーBが、「A子に対する手のひら返しが自分にはどうしても納得できない」と言い出しました。
その言葉を聞いたとき、「いや待てよ」と。「納得できないと言い放つあなたに納得できないできないよ」と。
「他人の心の問題に対し、なんであなたの納得が必要なのさ?」とBに対し、ついやり込めたい気持ちに駆られたのは言うまでもありません。
人が離れるには離れるだけの理由があります。本当のところは当事者たちにしかわからないことで、部外者があれこれ言ったり詮索したりする問題ではありません。
大人の人付き合いはもっと自由でいい
人格が形成された大人のいいところは、自分が付き合う人を自分で自由に選べること。
もう人生の終わりが見えてきた年齢なので、自分の責任において、関わりたくない人には関わらない。嫌な思いまでして我慢して付き合うほどの無駄な時間はないと判断したから離れた。「こいつ、ヤバい、もう無理!」と判断したから離れた。ただそれだけの問題で、他人が納得するしないの問題ではありません。縁がなかっただけのこと。
小学生じゃあるまいし、「仲間はずれにしている!これはいじめだ、A子がかわいそう」と心の底から思うなら、離れた人を「納得できない」と批判する前に、自分が責任を持ってA子と仲良く付き合えばいいだけの話で、そんなに噛み付く事じゃないでしょう。
それとも、嫌いでも無理して今までどおりつきあえってこと? ナニサマ?
一方的におかしな加勢をして、さらに敵対的に二分する構図を強調するだけで、とうてい知恵のある人とは思えません。
このように、さも「自分は正しいことを言ってます」的な「納得できない」発言は、実はツッコミどころ満載の、的外れ発言でしかなかったという結末となり、偽善者にありがちな底の浅さだけが浮き彫りとなったのです。
道徳なんて絵空事
思えば小学校で習った道徳の授業で言われるところの「人を嫌うのは悪いこと」「誰とでも仲良くしましょう」的なあのフレーズ。人を見る目が養われていない小学生であれば正しいかもかもしれないその洗脳は、成長し、大人になった今ではただの理想論であり、絵空事でしかないのだと思ってます。
そもそも「ともだち100人」なんて無理だから!
教師にしてみれば「そうやって洗脳しておけばトラブルが減って学校側がラクできる」的な?
どうせそれを教える側だって、完璧にはできてない人が多くいますからね。
でもその洗脳が、大人になっても解けない人は「こうあるべきだ!こうするべきだ!」というなんの役にも立たないマニュアルが根強くあるためか、他人が自分の思いどおりにならないことに対してひどく責め立てる傾向が強いです。
なので大人になったら役に立たないマニュアルなんてさっさと捨てて、自分の責任において人付き合いをしていきましょう。
上手く付き合うというのは「きちんと距離を取る」ということです。
親しい相手であっても自他との境界線を常に意識し、互いの違いや自由を認め合うこと。”仲間だから”と「なんでも一緒」を求めないこと。自分基準の正しさを相手に押し付けないこと。それが大人の人付き合いのコツです。