「叩いてもいい人」と見なすと、とことん叩く人の心理について考えてみます。
地域や職場など、あなたの身の周りに「この人はみんなから嫌われている」という人がいたとして。
その人が何かをすれば、それがほんの些細なことでも容赦なく叩かれてませんか?
嫌われている人は重罪人になる
「やったこと」ではなく「嫌われている・好かれている」かで、罪の重さが違ってくるというこの矛盾。
同じ凡ミスを好感度が高い人がやっても全く問題にならないのに、嫌われている人がそれをするとなぜか大事件に発展。好感度が高い人は許されるのに、嫌われている人は島流しやさらし首など、とんでもない重罪を課せられます。
間違っても「それはそれ、これはこれ」にはなりません。「罪を憎んで人を憎まず」ではなく、「人を憎む」のがそもそものスタートゆえ、罪の内容なんてどうでもいいのです。
これは常日頃、特定の誰かを叩きたくて仕方がない人が、たまたまターゲットを攻撃する機会を得たからそうなるのです。「猫にマタタビ+坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」感覚がこうさせているのです。
「嫌われてるから叩いてもいい」と考えるのか?
前置きの尺が長くなりました。ここからが本題です。なぜ嫌われていれば、叩いてもかまわないという意識になるのでしょう。
それは、「みんなもそうだから」という右へ倣えの意識──みんなと同じなら安心という閉鎖的なコミニュティによくある同調圧力がそうさせるのです。それと、「人を嫌うことは良くないこと」という後ろめたさをごまかすためための理由付けもあるでしょう。
いずれにしても、自分で判断できないような人ほど人の好き嫌いまで周囲の顔色を伺って、多数意見を重視します。それでいて優位に立ちたい意識だけはあるという、弱い犬が身の程知らずにマウントしたがるのと一緒です。正義面して正論を振りかざすなんて、典型的それ。
ネットはリアル世界の縮図
最近のネット界もこれと全く同じだと、つくづく思います。SNSやブログが生活の一部になり、誰もが気軽に発言できるようになりました。それによって誰かを攻撃したくて仕方がない「ウォッチャー」には監視が楽になりました。当然お気に入りの「ヲチ物件」に張り付いて、揚げ足取りの機会を狙っているのです。
そう考えるとネットはもはやバーチャルではなく、人間社会の縮図です。なんだかすごく窮屈な感じがします。
それが日課になっている人にとっては楽しいのかもしれませんが、そんなことしてを何が楽しいのかと、私にはその感覚がよくわかりません。
嫌いなら嫌いでもいいけど、嫌うなら自分一人で嫌えばいい。イラッと来ない距離まで離れるスルー力をつければいいじゃないですか。その方がはるかに建設的だと思いすよ。だっていくら批判したところで、言葉で人は変えられないのですから。