ブログをやっていると批判的なコメントをもらうこともあるかと思います。それに対する返信の常套句は「嫌なら読むな」というもの。
半分は正しい。でも、そうではないケースもあります。つまりその理屈が当てはまるのはケース・バイ・ケース。
ところが批判コメントを受けた側は口を揃えて「不快なら読まなければいい。嫌なら読むな」と言います。伝家の宝刀さながら、そう言えば相手は言い返せなくなると踏んでいるからです。
しかしその伝家の宝刀は、使い方を間違えれば「開き直りをもっともらしく言ってるだけ」になってしまう可能性があり、それにより自分を切り刻むための刃にもなるのです。
とあるブログの違和感がきっかけ
つい最近、どこのサイトかは忘れたけど、タイムラインで流れてきた、あるブログ記事に目が止まりました。
内容は、親子関係について書かれたもの。「娘に嘘をつかれたので、親子の縁を切る」とかなんとか。
ただし嘘と言っても本当にごく些細なこと。どこの家庭にも起こりがちな「ああ、またオカンがうるさいから適当に交わそう」的な、年頃の娘にはよく見られる光景。
けれどその母親は、適当に交わされたことに激怒し「私はその程度の存在なの?だったら母娘の縁を切る!」という、かなりエキセントリックな文面をブログに上げていました。
「こんなことで?」と半分ドン引きしつつ、「ふぅん」としか言いようのない内輪ネタ。まるで「私を捨てないで」と、なりふりかまわず心変わりした恋人にすがりつく女と同じで、それを読む限り、「こんなことまでブログに書かれて、この娘さんは大変だなぁ」と、正直、私はそう感じました。
同じように感じた読者さんは他にもいました。
後日その娘さんと同世代の若い女性から母親に対して「重たい母親」というお叱りのコメントが入ったそうです。それはあくまでも娘さんの心情を思いやっての真摯な意見です。
コメント欄を閉じれば?
するとなぜだかブログネタにされた娘が反論。
「うちの家族について意見ができるのは、うちの家族の歴史を全て知っている身内だけ。不快なら読むな」と母親の肩を持つあたりがよくわからない。金づるを手放したくないのかな?
私はこの反論は、一見もっともらしいことを言ってるようで、実はとんでもない見当違いな言い分だと感じたのです。
この娘さんの言葉を借りれば、ネット上は家族の歴史を知らない人がほとんどですから、ほとんどの人は意見ができないわけですよね?
それなら最初からコメント欄を閉じておくべきだと思ったのです。
もっと言えばほとんどの人が知らないような家族ネタを、(愉快な話ならともかくそうではない話題を)感情の赴くままにネットに上げる母親の神経がどうにもこうにも理解に苦しむわけで。
百歩譲って、「単なる個人日記は討論の場ではない」というなら、最初からwebという媒体を使って公にするべきではないと、私はそう思うのです。
余談ですがこれはプライベートを切り売りするブロガー全般について言えること。この手の人って勝手に自分で私生活を暴露しておいて、読者から思ったとおりの反応が得られないとすぐに被害者ぶるからタチが悪い。
また母親に対する意見なのに、なぜ娘がしゃしゃり出てくる?さんざん母親からボロクソに書かれたというのに…。
それらもろもろの違和感はあるものの、一口では語りきれないその母娘にしかわからない家族の歴史とやらがあるのでしょう。そっとプラウザを閉じ、「いろんな母娘がいるもんだ」と、ホッコリいたしました。
「嫌なら読むな」は書き手が言う言葉ではない
この母娘はさておき、それ以来、ブログの批判に対する反論でよく使われる「嫌なら読むな」についてを考えるようになったのです。
ブログに何を書くかは書き手の自由。けれど世に放たれたコンテンツに対する感想も発言も自由です。
批判のそもそものスタートは、書き手の自由意思で書かれたコンテンツ。記事が独り歩きを始めれば、その人だけものではありません。誰が読んでいるかがわからないのがネットの世界。当然批判されることもあるでしょう。
ブログを書く者として批判されて嬉しいはずはありません。正直、凹みます。でもブログを書く以上は仕方がないこと。それが嫌なら最初から何も書かなければいいのです。
仮に批判コメが来たら「それも含めてのブログだ。ときにはそんなこともあるさ」と、気持ちの切り替えを上手くしていかなければ、ブログの継続は困難です。
少なくとも私はこの20年、そんなスタンスでやっています。
都合が悪くなると「名誉毀損」と口走るみっともなさ
けれど最近はそうではありません。酷いのになると自分で炎上するような記事を書いておきながら、それに対する批判記事が来れば弁護士の名前をチラつかせて「名誉毀損」だと脅しをかける人も中にはいます。実にみっともない。
それに比べれば「嫌なら読むな」と開き直る程度なら可愛いものかもしれません。
だとしても、それは50歩100歩。やはり違うと思うのです。
書き手側に書く自由があるなら、読み手側にも批判する自由があるという、相手の自由を無視した「嫌なら読むな」という言葉。読み手に対して「読むな」と命令する権利は書き手にはないというwebの基本を無視したその考えは、まるで第二次大戦中の言論統治下にあった、敗戦色が濃厚だったかつての日本の姿と同じです。
ネットはいつからこんなに窮屈な環境になったのでしょう?
「嫌なら読むな」という言葉を見聞きするたびにそう感じます。もしかしたらその言葉を使う人ほど、もっともブログに向いてない人種かもしれませんね。以上です。