Essay

批判されて傷つく理由と、批判は悪と決めつける理由

「ナニ?このタイトル。批判されたら誰だって傷つくに決まってるじゃない」と多くの方は思うはず。最近の風潮として、批判は悪という捉え方がなされていますからね。

でも必ずしも、批判の全てが悪とは言い切れません。むしろ批判を悪と決めつけることの方が危険です。そのためには批判されて傷つく理由も知っておく必要があります。

図星だから傷つく

批判の内容が当たっているときほど人は傷つきます。人は、図星をつかれた時ほど大きなダメージを受けるのです。

取るに足らない全く的外れな批判なら、最初はムッとしても時間の経過と共に「チャンチャラおかしいわ」と、笑い飛ばす心の余裕が生まれます。だって的外れなんだから、堂々としてられるはずでしょ?

以下に興味深い記事があります。

「批判的な意見は、だいたい100パーセント当たっている。」とあります。100パーセントとまでは申しません。中には的外れなものもあります。でも後でよくよく考えてみると、悔しいけど批判の内容は当っている部分が多いのです。

だからこそ図星を突かれた人は、返す言葉がないから表向きは「ヤッカミだ、無視するに限る」と強がりつつも、自分への攻撃と捉えて内心はビクビク状態。どんどん批判に敏感になっていくのです。

批判されると二つのパターンに分かれる

ひとたび防御の姿勢に入ると、弱い犬が強がって歯をむき出すようになるか、自分を被害者にしたてて周囲に媚を売るかのどちらかです。

「無視するに限る」と吠える人は歯を剥き出す前者のタイプ。以下の記事に書いたような被害者ぶる人は、後者のタイプです。

炎上ブロガーが被害者ぶる理由
炎上ブロガーが被害者ぶる理由以下の記事は「認知的不協和」について書かれた記事です。 人は自分の信念に反する事実を突きつけられると、過ちを認めるよりも、事実...

アピール方法は違えど、共に自分を被害者に仕立て上げ、「”誰か”かわいそうな私の代わりに、私を批判した人をやっつけて」という願望がどこかにあるはず。これは言い返せなくて、悔しがってママに言いつける悪ガキと一緒です。

でもいくら吠えても、尻尾を振って誰かに媚びても、肝心の”誰か”は現れず。適当に同調する人はいるかもしれないけど、結局は他人事。期待に沿うような行動には移してくれません。だから心に抱えた葛藤は永遠に続き、いつまでも無駄吠えが続くのです。

アンチの意見は的を得ている

敵と味方というとおおげさですが、自分とは反対意見の人は必ず存在します。彼らが自分に対してもっている意見は、ほぼまちがいなく当たっていると覚えておいたほうがいい。

逆に、味方の意見はだいたい正しくないのです。敵は思いもよらない角度から僕を具体的に分析しているしドライに見ています。耳に痛い批判や意見こそ、真実であり、当たっているものです。

たとえば誰かのブログで、「松浦さんの、ここがきらい」と書かれていれば、だいたい100パーセント当たっています。自分からあえて批判を探すようなことはしませんが、目にふれることがあれば、「これは正しい指摘。発見だ!」と受けとめて、ありがたいものだと感謝します。

もちろん人間ですから、落ちこんだり、がっくりすることもありますが、わるく言ってくれる人がいるということは、逆にほめてくれる人もいるのだと、考えるように努めます。それに、誰にも関心ももたれず、なにも言われないほうが寂しい、という気もするのです。

これは上記リンクで紹介された「もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。」からの引用です。

批判に耳を傾けない人の行末

昔は「言われているうちが花」と言ったものですが、今は「言う側が悪になる」時代。時代の変化だから仕方がないとはいえ、それで本当に成長があるのかと思います。

歴史を紐解いても、イエスマンしか側近に置かなかった独裁者は、例外なく悲惨な末路を迎えてます。

でも批判を悪と決めつけず、「耳に痛いけど当たっている部分もあるな」と、ほんの少しの勇気を出して、真摯な気持ちで批判に向き合ったなら、そうはならなかったはず。その勇気を惜しんだために、後にもっと多くの莫大な犠牲を払うことになったのです。

歴史に学ばない人が歴史に復讐されるというのは、そういう意味です。人が愚かであるというのも歴史が物語っていることです。いい加減学ぼうよという感じ。

どんなに耳を塞ぎたくても、的を得た批判に対して素直に耳を傾ける素直な気持ちがあるかどうかが愚かな歴史に終止符が打てるきっかけになるのです。

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蒼 じゅりあ
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サイト名の「Un Jour」とは、フランス語で「ある一日」という意味です。日々の記録・エッセイをまったりと綴っていきます。